hamayan が感じること
hamayan
施術者・hamano
のつぶやきペー
ジ
ここはいわゆるスピリチュアル系といわれる話題が中心です

い
いこと、正しいこと、まっとうなこと?
このところ色々なかた
のご相談をおうかがいしていて、しみじみ感じるのは、刷り込みの強力さです
まっとうなこと・いいことさえしていれば、いいことがおきる。人や現実の出来事に認められる
または、混迷していることも遠山の金さんのような人情的なカタチで片がつく..
そんなふうにシンプルに思い込み、信じすぎている人が多すぎるような気がします
それはたぶん、幼少の頃からずっと、周りの大人やテレビその他から刷り込まれたものでしょう
で、まっとうであろうとする人ほど、傷つくことが多発しているような...
私は自身の経験上、いいことをしたらいいことにつながるかは
そうともいえるし、そうとはいえない。というのを実地で学んだ気がします
人には、絶対的な正しさを判定し人を裁ける器量など基本的にないように思います
前世や他生の因縁どころか、今生の経緯も、今現在目の前の相手がおもっていることすらも
それどころか、自分の考えすらも十分にはわからないのに、局部限定でない
ほんとうにほんとうの真実を判断し、裁くことなどできるのでしょうか?
今、何かとても理不尽なことがおきているとしても、もしかしたら
目に見えない過去における正当な理由で、それを清算するために
理不尽な目にあっている可能性もあるのではないでしょうか
一見、トラブルに見えることの中に、大きなギフトや可能性は隠れていないのでしょうか..
因果のすべてを把握してはいないなら、絶対的な正誤や善悪の判断は
人間にはできないのではないでしょうか...
そのため、私は基本的に、人間の間に絶対的裁量権は存在していないととらえています
(便宜上発生した法的なものを認めないという意味ではありません)
どこかだけ..一時の時間の中の、組織の関係だけ、約束だけ
立場などだけを区切って、その中だけで善悪を判断し
責任を追求して、誰が幸せになるのでしょう?
誰が本質的な安らぎをえられるのでしょう?
そうした言動は「自分は正しい」のに「世間(世界)は理不尽だ」という観念とか
その時に対象になった相手の存在に、自分の心身を縛り付けやすくはしないでしょうか..
それは他の誰かはさておき、自分にとって苦しいことではないでしょうか
そうした苦しさと安らかな幸せとは、正反対のベクトルのもののように感じます
そんな価値観をもっていると、「いいこと」ってわかりにくくなります(笑
が、
では、どう思っているかというと..
波動の法則というものがあります
潜在意識は、自他の区別がつかないといわれています
自分にむけたものでも他人に向けたものでも、自分にむけられたものとして蓄積します
対象が自分でも他人でも同じですが「ゆるさない」という思考は
自分の潜在意識の中に「ゆるされない自分」を作り出します。他も同様です
まっとうなことをしていない人をみてそれをゆるさない自分は、ゆるされない自分を作り出し
その波動をもっているために、「ゆるされない自分」という波動をおびた現実を引き寄せるわけです
そのため、いかに正しいと感じることをがんばって誠実にしていても
ゆるされないと感じることばかりおきやすくなるわけです
同じ波動同士はひきあう、というこの法則により
相手や周りと響きあった状態で(ひとりよがりではなく)、心身の底から自他にとってよいと感じることをし続け
その結果を認め受け入れ続けると、自然に自分がよいと感じることに遭遇することが増えてゆき
幸せな時がふえてゆく道理がみえてきます。これはこの世界の構造的真理だと私は感じます
こうしておけばいいん
だろう的な、表面的な態度や間に合わせはもちろん
正しくても実は自分の事しか考えていないような言動や、見得その他の自己満足のためや、習慣や惰性や
不安の代償や、取り繕ったりすり替えた思いやなんやでは、波動の法則は発動しませんが..
私好みなアーユル
ヴェーダでは「自分にも人にも、世界にもいいこと」そんな表現がつかわれることがあります
そうした広く深い視
野・実感からうまれる選択が、幸せにつながるように感じます


自
然法則・物理法則
このところ、自然法則・物理法則に基づく療法やヒーリング
要所をおさえた方法が、表に出てくるようになったなぁ..と感じ
ます
生物にも静物にも万物に、できごとにも効く
これって当たり前の法則でもあるけれど
それに基づく反応はすごいもので、そしてとても恐いものなので
だからこそ表にでにくいように伝えられ、長年そうであったような
のに
人を厳正に選んでひそやかにしっかりと伝承されていたものや
いまさらながらに発見(?)されたりしたものが、表に..
テレビとかにでてきてるのもありますね
修行もアチューンメントも何もない簡単な方法で
「利き目を変えれば脳を活性化できますよ〜」なんてのを読むと
これって、ええと、公にしていいの?なんて、老婆心ながら思って
しまいます
だってこの方法、エネルギー状態がへんてこりんす
ぎない人には
(すぎると効かないような?)ホントに概ねきくんだもん(笑
こういうレベルからの大きな変化は、再生にも破壊にもなる
やり手も受け手も覚悟なく、うっかりでもやれちゃうってどうなん
だろう?
でも、自然法則に即してない療法なんて
人間の頭、思考、意識の産物でしかないんでしょうけれども..
あ、それでも効果が大きく出るのが、人間の特徴で
あり、神秘であり
長所でも短所でもあるのかな?かわいさでもあるのかも?
心理療法のテクニックなんかは
そこらへんねらったものが多いのかな?
それはそれで素晴らしいものだと感じます
世界をなしているのは、たぶん
人間のものも含む意識等の情報を帯びているエネルギーだから
そこに変化がおきるなら、万物への影響もあると思います
話がズレましたが。アタマで意味や意義を考えるのに
私もだけど、他のかたも、世界(宇宙)も、飽きてきてるのかもし
れない
飽きるのではなく、きわまりつつある地点なのかな?
療法などの世界だけでなく
他の分野でもそんな傾向がある気がします
なんか、そもそものあなたはどうなの?
ここまでみたいの?みてどうなの?味わって、どうしたいの?みた
いな
篩(フルイ)にかけられているような気も、しなくもないよう
な..
ヒトもモノも、なりたい傾向、方向を
生まれたときからもっていると感じます
私好みなアーユルヴェーダでも、そういいます
人は受精の瞬間に得たエネルギーバランスどおりにあり
逆らわず増徴せず拒否せず、へんに増減しすぎず、乱れずに活きる
のが健康で幸せだと
そのサポートができるように存在できればと願うけど
それは単に、自分がそうなりたいからそう願っているのかも
なぁ..とも思う
ま、私自身は、何かや誰かにサポートされてもなんにしても
自分がその時いきたい方にいく勝手モノなんですが(笑


お
稽古
先日のお休みの日、行
きたかったお稽古にやっといけました
そこで試したいことがいくつかあったのですが
試そうと考えていたことをやるの、すっかり忘れてました
..私はなんてトリ頭なんだろう(笑
ここのお稽古、それ自
体もおもしろいし、楽しいし
(先生や、教えて&お相手してくださるみなさまがたのおかげだと感謝してます)
色々なかたにお会いできることで、自分の様々な面を見ることができるのも気に入ってますが
自分の感覚や自分が感じている世界の仕組みは
ちゃんと現実にリンクしている、妥当なものだということが
その場で現実のできごととしてスグ確認でき、安心できるのも行きたくなる理由です
私は、いわゆる目に見えない系の自分の感覚は
(...って、自分の
感じてるものはまだ入り口序の口なんですが(笑)
どこかおかしい、中途半端な、歪でよろしくないモノではないか
単なる思い込みではないか、現実から逃避したいがために創りだした幻想ではないかなどと
深く強く疑っていたんだなぁと、ここに入会させていただいてから気がつきました
それはキネシオロジーを日常的にやったり、ヒーリングなどを生業にしたり
チャネリングをした結果が未来の現実と照合したことがわかっても、受けた方が喜んでくださっても
よく見える先生にそれなりに評価していただいても、消えなかったんですね
そういう傾向があるなら、いっそ伸ばしてみよう〜とやってみたつもりでしたが
学んでも、させていただいても、キモチのどこかがすっきり!とはいかず、ヘンだなぁとは思っていました..
あ、周りからみての胡散臭さ度があがり、そういう反応があるのも影響してるかもですが(笑
そんなふうに、感じるものを素直にそのまま認めて、使って
伸ばしていっていいものだと思えなかったのが
そうしていいんだと普通に自然に思えるようになりつつあるのは
自分の感覚への疑いが、現実という証明を伴って晴れてゆくのは
とてもありがたいことだと思っています
おかげで、からだへの施術もヒーリングも前よりやりやすくなったし
自分でいるのもよりラクになったと感じます


方向〜陰陽・光と闇・アセンションとディセンション・愛と不安(恐怖)
ここの過去ログ文章か
らの引用ですが「人
間の感情は
たどっていくと、「愛」か「不
安(恐怖)」のど
ちらかにいきつくといわれています
こ
れは、「一体」か「分離」という反対のベクトルのど
ちらへ向かうかともいえるかもしれません」
いわゆるスピリチュアル系、精神世界系で
「アセンション」が...云々と言われはじめて久しいですが
それはつまり、次元上昇=愛や一体へむかう方向なのだと私は解釈しています
自分を他者を、世界のありのままを見、そのまんまを
無償の愛を持って受け入れ続けてゆくという方向かもしれません
自分本体だと勘違いされることが多いいわゆるエゴ・情報を手放し、エネルギーに還ることかもしれません
そして、人は..というかおそらく人間が認識している世界のすべては
日進月歩ながら後戻りや道草もしながらも(もちろんそれらも有意義なんです)
その方向へすすんでいるように感じています
私は能天気なのか(笑)それともそのとおりなのか、や、精神世界系でも
インド哲学とかでもそういうようですが、もといた(いる)ところもそっちなんだと思っています
右(時計)回り、光、アセンション、陽、愛..なのかな
ええと、もしかしたら、どっか組み合わせが間違っているかもですが(笑
さておき、逆もあってこそこの世界は成り立っているわけです
なぜ逆が必要な世界なのか..私は、正方向をより認識するためだと解釈しています
対極が存在するということで、おのおのをよ
く知ることができるようです
私が魅かれているアーユルヴェーダは、インドの古典哲学をベースにもっています
その授業の中でDr.クリシュナ(や?ハタイ医師か青山先生だったかも?)からきいたのは
「この世にプルシャという存在があった。それがなぜか自分のことをもっと知りたくなり
この世のすべての事象、世界が展開されていった」というものです
人間はそれにならって、自分の事を知りたいがために
色々な体験ができる現実を創りだしているのかもしれません
他者や世界のことを知りたい、追求したいと感じるのはそのためかもしれません
私はアーユルヴェーダの授業をぼ〜っと受けていた時に
前触れもなく意図もなく、とうとつに(いきなり変性意識にトんじゃったんですね
(笑)
「ど
んな自分も世界もできごとも全て必要とされていた..そもそも存在をゆるされているから、今ここにあり、おきている」
そんなメッセージを含んだ、いわゆる至福・恍惚な光の神秘体験を味わったことがあります
(その後体験した、コア・トランスフォー
メーションによるコア・ステートよりも強烈で永劫にも感じる味わいでした)
そ
の時にそのメッセージの意味や、世界がこうある意味等を漠然とですが体感・実感しました
この現象世界は「左回り」・陰・不安(恐怖)・ディセンションの流れにのることにより、うまれたのだと感じます
そうした要素が、認識の増大に貢献しているのだと思います
どうしてもネガティブになってしまう..というかたは
まだその展開の流れにのっていて、そちらの方向に役立っているのだと思います
(それはそれで、そもそもの目的に応じているし世界の貢献になっていると私は感じます)
そうではない方向にいきたくなった場合、単にそれを選べばいいのだと感じます
(えと、そのほうが個人的幸福感とか感じやすいと私的には考えています)
選ぶだけではうまくいかない場合、ディセンションの過程(いわゆるエマネーション)で抱え込んだ
カルマ(強い固定観念・思い込み・執着)などがさしさわっているのかもしれません
それらは直視し自覚・納得すると意外とあっさりとれるものですが
それができにくい場合は、KSカルマ解除などのワークも強い後
押しになると思います


目に見えない能力と人格
たまに、他の処でヒーリングやチャネリングを受けたけど
受けなければよかった、腹が立った、ひどい言葉が忘れられない
気になることだけ指摘されてヒントもくれなかった、愛を感じなかった..そんな苦情(?)を耳にします
これは受け手のかた
が、特定のニーズだけを求めるあまりにそれ以外を否定していたり
(問題の肩代わりや、意味がわからないままの解消や、肯定感・わくわく感などだけを求めるなどして)
(役立つ苦言や提案までもが拒否されている場合等)
現実や自己からの逃避の性格をおびた、過剰な期待や依存をされていること等から
(や、自ら自身がそういうヒーラーや、それらをあおるようなヒーラーもけっこういるのかも(汗)
そうした印象がうまれやすい場合などもあるかもですが
実際、はたできいていて「をいをい!」とつっこみたくなるようなこともあります(汗
「はい?」と耳を疑いたくなるような(笑)内容・言い方をされるかたもいらっしゃると思います。きいたことも多々あります
それは意図的にねらってそうされていたり、自覚なく心底から浸りこんでいたり..様々だと思います
かくいう私も、口が悪
いというかはっきり言い過ぎるきらいがあるかと..
発奮的な反応や固定価値観を手放すこと等を促すために、狙って強いことを言う場合もありますし
まだまだ道の途中の身でクチがすべるのもあるし..はい、ここには深い反省と自戒も多々こもってます(大汗
が。こうした苦情
(?)に
は、目に見えない能力をもつ人=聖人のような素晴らしい人などのように思い込まれているので
不満が大きくなりやすい..というのもあるのかも?しれないなぁ?と感じる時もあります
たとえば、仕事ができるかた。料理技術が高いかた。才能のあるかた
何かの能力が高いかたは、皆がそれ相応の人格者でしょうか?そうとは限らないと感じます
医師、カウンセラー、治療家などでもそうしたケースは多々みうけられる気がします。人格と能力の高さは別物なのです
能力、魅力、権力、腕力、表現力、治療力..なんにしても同じだと思いますが
もっている「力」が大きくなるということは、周りや世界への影響力が大きくなるということですから
人格の向上がともなうのが理想なんですけれども..一致するとは限らないようです
目に見合えない能力は、エゴがおちるほど向上してゆくという側面もありますが
エゴや執着がパワーの強さにつながっている場合も見受けられます
それを見分けるのは、案外むずかしかったりもします
人格の高さに応じてだ
け、ヒーリングやリーディングの能力が高いわけではありません
霊視やヒーリングやリーディングや治療などが「技術」として学べる、人格や適正などを審査する師匠による関門なく
お金をだせば学べるところが増えている昨今、その傾向はより強くなっていると感じます
こうした力は、単に目に見えず今の科学では立証が難しいだけで
そのほかの力と同じ法則に基づく特徴を帯びている、特別ではない能力だと私は感じます
目に見えないからといって、変に持ち上げたり価値を吊り上げたり
逆に闇雲に否定方向で扱うのはいかがなものかと..
自分として生まれ、それぞれの道を歩んでいる途上の存在であるという意味で
目にみえない能力や技術をもち発揮している人も、そのほかの方となんらかわりない存在なのだと思います
他者と関わるなら、お互い愛にあふれ嬉しく楽しく受け入れ合い、認め合い
ポジティブな面だけ生かし伸ばしあえれば..そんなふうに願うかた、多いかもしれません
私もできれば公私ともに常にそうありたいと、切に望んでいます
でも、つとめても、そういう間柄や展開にならなかったとしても
なんだか険悪になったり、誤解されたり、ハラがたってしまったり、居心地よくない感じなどなど
そんな関係や経験にも、貴重な学びやギフトやカルマの解消といった果はしっかり詰まっているものです
そうした果を得られれば、その関係や経験は、自分にとっても世界にとっても
心やすらかな真からの幸せにとって、意義あるものだと私は感じます
一見して感じとれ、わ
かる ことだけにとらわれ、がっかりしたり落ち込んだりし
自分や相手や状況を評価・非難したり否定したりする行為は、果を見出し、得る機会を遠ざけます
これはこうしたことだけに限らず、すべてにおいていえることかもしれません
解釈の抽象度をあげてとらえるということは
高い次元からものをとらえるということであり、高い次元から見られるということは
その瞬間、高い次元に自分があることで..ね?日常的な言動で、いわゆるアセンションにも貢献できる(笑
(注.私はアセンションに特別な関心がありません..「いずれにしてもどうせ誰もがいくことになる方向」と感じてます)
ヒーリングやチャネリング・リーディング、霊視などの目に見えないものも
能力もやり手もへんに特別視せず、自分もなるべくニュートラルな状態で、感じること、おきることを
そのまま見つめ、自分なりの高次元解釈も含め受け取る..そんな感じのスタンスでうけるのはいかがかなぁと思います
私自身は、そんな感じで他者のリーディングや治療などを受けています
思いがけないものも山ほど得られて、ホント!面白いです



そっちの世界
先日、以前はたらいていた体への施術をするお店のモト同僚数人と会ったとき
「hamanoさんは、そっちの世界の人になっちゃったから」というようなことをいわれました
そっちの世界の人?..あ、スピリチュアル系の人ってことか
ん〜。私にとっては、目に見えるものもそうではないものもエネルギーで
それが情報を帯びているだけだと感じてるから、からだからのアプロー
チもスピ系も同じようなもんに思うんだ
状態や症状は情報によるものだから、自然かつ瞬時に変化させることもできるワークや療法もあるんじゃないかな
(この「情報」の違いが個性や差異なのだと感じてます。ほんとうはエネルギー自体が「自分」なので
(「全は個、個は全」なのですが、人間はかかえこんだ情報を「自分」だと思い込み後生だいじにする傾向が強い気がします)
(これが「本来の自分になりたいなら、自我やエゴとかを手放せ」などとよくいわれる所以ではないでしょうか)
いずれにしてもどっちも、エネルギーのバランスを乱している因をほどき、バランスとれやすい流れにしてゆくために
今はもう不要な情報を抜いたり、受け手が主体性をもって望むのなら書き換えるだけかなぁと思うんだけど..
そんなことを言ったら「ぜんぜんわかんない」と笑われました(笑
でも、わかんない、と言ったこの友人のほうこそ
私よりはるかにうまくそういうことをしているんじゃないかと思う時もあるのです
あまり考えず、技術にもとらわれず、自分の感覚のままやっているので
そういうことをしているという認識と概念がなく、無自覚なだけじゃん..と感じます
この人に限らず、そんなかた、けっこう多いんじゃないかなぁ..と思います
知識を備え、技術と練習をつんでいない、素質もない、だから自分はできない..そんな観念を強くもっているために
それがブレーキのようになり、カタチになるほどのことができにくい場合が多いためであるように思うのです
これってこの世界で子供が成長する時に、どうしても抱きがちな(抱かせられがちな)観念だと思います
これは、ヒーリングやエネルギーワークなどに関してだけでなく
肉体的なアプローチでも、そういう場合もあるのかもしれないなぁ..や、つきつめるとみなそうかも??
他の日常的なことや、未来の展開に関しても同様かも..などと感じます
でも、なかなか観念なく自然にさくっと..ってできにくいというのもわかる気もします
はい、これも自分の実感からきているので、身をもっての感覚です(笑
ここを越えるために瞑想やワークなどをしたり、様々な人生経験を味わったり、知識や技術などを身につけたりし
ブレーキになる観念をおとすことと、できるということを無理なく信じられる過程を踏むことを
必要な段階として選択している人が多いということなのかもしれません